ブルース・リーの強さの秘訣は?元不良なのに学歴は高いの?名言や死因も気になる!

この名を知らない人はいないと思えるほど有名な「ブルース・リー」

映画を見れば、なぜかブルースになりきってしまうような、そんなカリスマ性のあるブルースの秘密に迫ります。

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有名になったのは死後だった

日本でブルース・リーの映画が初めて公開されたのは、1973年12月『燃えよドラゴン』でした。

この作品を皮切りに、ドラゴンシリーズが日本で次々と公開され日本中がブルース・リーの虜になりました。これは日本だけでなく、アメリカなども同様の波紋が広がりました。

しかしブルース自身はそんな現象が起こっていることを知りませんでした。なぜなら彼は、1973年の7月に急死していたからなんです。

公式な死因は『脳浮腫(のうふしゅ)』とされ、頭蓋内圧が上がり脳幹が圧迫されたことにより死亡したとされています。しかし脳浮腫を起こした要因はわかっておらず、長年服用していた痛み止めの副作用であったり、アナフィラキシーショックによるものではないかなど、憶測は今も続いています。

当時の香港はイギリスの植民地ということから、ブルースのみならずもともと住んでいた香港の人たちはとても貧しい暮らしを強いられていました。

当時の香港の子供達は日常生活もままならず、路上でたむろしては喧嘩を繰り返す日々でした。ブルースもその一人で、勉強そっちのけでナイフや鎖で虚勢を張り、13歳で本格的に習い始めたカンフーも喧嘩に勝つためだったのです。

地元香港では「俳優の不良息子」と悪評が立ち、ある日ブルースはカンフーを使いケンカ相手に大怪我を負わせ警察沙汰になります。

そんな息子の将来を按じた父は、アメリカの市民権を獲得させるため18歳のブルースを単身渡米させます。

そこでアルバイトをしながら高卒の資格を取り、ワシントン大学哲学科に進学したブルースは、在学中に中国武術を教えたり、高校で哲学講師をしたりします。奥様のシャロンさんとご結婚されたのも在学中でした。

しかし武術への情熱が抑えきれずに、大学を中退し道場経営を初めます。そこで教えていたのが彼が考案した「ジークンドー」でした。

数々の武術大会で優勝するブルースの姿がTVプロデューサーの目に止まり、アメリカのTVドラマに出演。これをきっかけにアクションスターへの道がひらけてきます。

1971年に『ドラゴン危機一発』が公開されると、香港の歴代興行収入の記録を抜き、一躍香港のトップスターとなりました。

その後ドラゴンシリーズがいくつも撮影され、1973年1月にアメリカと香港の合作として『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がり、これがブルース主演で完成された最後の作品となったのです。

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強さの秘訣は?

彼がヌンチャクを振り回して戦うシーンがありますよね。しかしこれ、日本がきっかけだと言うことは知られていません。

日本人で香港アクション俳優の倉田保昭さんが、ある日ブルースとあったときにヌンチャクを見せたそうです。するとブルースはそれを振りながら「いいね、なにか使えないかな」と言ったそうです。

そもそもヌンチャクは沖縄文化の1つで、香港にはありませんでした。それをまるで我が物のように扱うブルースのセンスが素晴らしいですね。

武術センスが並外れていたからこそ、鍛え抜かれた体で表現できたのかもしれません。

また、そんな鍛錬を自身に課してきたブルースだからこその言葉がこちら。

私が恐れるのは、一万通りの蹴りを1度づつ練習した者ではない。たった1つの蹴りを、一万回練習した者だ。

日々努力を惜しまなかったブルースの信念が見えてきます。

そしてもう一つ、精神力についてはこのように語っています。

簡単な人生を願うのはやめろ。困難な人生を耐え抜く強さを願え。

貧困や単身での暮らし、世間からの評価など、多くの困難を乗り越えてきたブルースは、平穏を願うのではなく、それに耐えられる精神力を願ったんですね。

自分の内面にとことん向き合い、その短い生涯を閉じたブルース・リー。

彼が今も輝いているのは、そんな精神の強さに魅力があるからかもしれません。

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